『いただきます』 ~ほんとうの「食育」とは何か~

先日、友人からこんな話を聞いて考えさせられた。
家族で飼っていた軍鶏を鍋にして食べたのだという。

雌ということで卵を期待してもらってきたら雄だったらしく、どうにもならなくなって食べることにしたらしい。家族みんなで飼っていたのだから、全員で食べないといけない、ということになり、父親の指示の下、家族全員で軍鶏鍋を囲み、悲しいやら美味しいやらでたいへんだったそうな。

そんな話を聞いて、ある映画の場面を思い出した。クリスマスイブに家族で七面鳥を食べているとき、まだ小さい男の子が食事の途中で「これ、○○ちゃんなの?」と尋ねて、お母さんが頷いた途端、兄弟全員が大泣きして、楽しいはずのクリスマスディナーが泣きの涙に包まれるという場面だった。しかし「生きる」ということは、こういうことなのではないか。

ところが都会の生活では、食品に使われる動物の生前の姿を見る機会がなくなってしまった。肉類はすべて切り身を包装して店頭に並べるため、動物の姿どころか肉塊さえも目にすることはない。魚が切り身のかたちで泳いでいると思っている子どももいるという。中国やフランスでは鶏を締められないと主婦は務まらない。日本の消費者はあまりに甘やかされていないだろうか。

その結果、今の日本人には

「命を頂きながら生かされている」

という感覚が薄れてしまっているのではないか。

食物への感謝の気持ちは、動物、家族、社会を大切にする「優しさ」を芽生えさせる根源である。これが薄れるということは、危険な状態であるといわざるをえない。


近年盛んに食育が奨励されるようになったが、家畜を育てて自分たちで捌いて食べることが、究極の食育ではないだろうか。

平成21年(2009)5月10日付『産経新聞』に、命の尊さと食べ物の大切さを教えるために、授業にこれを取り入れている長崎県立島原農業高校が紹介されていた。

生徒たちが雛のころから餌をやり、世話をしてきたニワトリを捌いて肉にし、自分で育てた野菜も使ってカレーを作る実習がある。

ニワトリの頭を落とすとき、庖丁を手に取る生徒と、それを見守る生徒はみな涙を流すが、誰も目をそらさないのは、事前に教師が「目をそむけるのがいちばん失礼なこと」と教えているからだという。実習を終えた生徒たちの感想は次のようなものだった。

「最初はかわいそうと思ったけど、命の大切さを感じ、無駄がないように作ろうと思った」
「自分たちのために肉になったんだ。ちゃんと食べてあげないとかわいそう」
「感謝して食べようと思った。これからは好き嫌いせず何でも食べたい」

同様の実習が保護者とPTAの反対に遭って中止に追い込まれた学校もあり、家畜を捌く実習は賛否が分かれる。個人主義が横行する心の廃れた時代だからこそ、子どもたちはこのようにして命の大切さを知ってほしいものだ。


(日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか 竹田恒泰 著より抜粋)


文中の、長崎県立島原農業高校、取り組みの記事↓
http://www.asahi.com/edu/tokuho/TKY200905110194.html


いただきます、という意味、ぜひ伝えていきたいですね!